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小咄 其の一

「Over time.」by.碧山 深依

 俺は自分の腕時計を見た。夜9時を回ったところだった。
 秒針はのろのろと進み続けていて、いっそのこと止まってしまえばいいのに、と思いながら、俺は隣のデスクにいる六実先輩を盗み見た。
 パソコンの画面を凝視して、険しい顔をしている。
 それにしても六実先輩、さっきからまばたきすらしてないんだけど、大丈夫なんだろうか。でも、そんなこと訊いたら変な奴だと思われるし。
 悩んでいると、六実先輩がふと椅子の背もたれに寄りかかり、俺の視線に気づいたのかこちらを向いた。
「大丈夫、五月女君?」
「え、あ……はい。すみません、ぼうっとしちゃって」
「いいよ。今、俺らしかいないし。普段はしゃきっとしてなきゃいけないけどさ、残業くらいゆるーくやろう」
 俺は頷きながら目薬を渡した。六実先輩は何の疑問も持たずに受け取ってくれる。
「ありがとう。やっぱり、パソコン用の眼鏡買おうかな」
 眼鏡姿の先輩……それはすごく見たい。いや、そうじゃなくて! ここは眼鏡歴の長い俺が買うとき一緒に行きましょうか的な展開を……って、そんな話の流れ変だって!
 俺が頭の中でぐるぐると考えていたら、ふいに六実先輩が吹き出した。
「……ど、どうしたんですか?」
 慌てて尋ねる。彼はかぶりを振って、ごめん、と話しだした。
「五月女君、俺が話しかけるとすごい百面相するから」
「え、あ……」
 まさか、全部顔に出ていたんだろうか……あああ、馬鹿丸出しじゃないか。恥ずかしすぎる。
 俺が頭を抱えて言葉を失っていると、六実先輩は椅子をこちらへ転がして近寄って来た。もう先輩は笑っていなくて、逆に申し訳なさそうな表情をしていた。
「先輩?」
「なんか、ごめんね。俺が会社入りたての時すごく緊張しててさ。五月女君も今そんな感じなのかなって、ちょっと話しかけ過ぎてた。逆に緊張させてたよね」
「そ、そんな……! 違います!」
 この緊張はその緊張とは違います! と口走りそうになるけれど、余りにも説明が難しくなるし、何言ってるんだこいつみたいになるのも嫌だし、いや、六実先輩はそんなこと思わない人だって分かってるけど!
「あの、えっと……たぶん、緊張はしてると思うんですけど、それは嫌な緊張じゃなくて、全然、話しかけてもらえた方が、嬉しくて……」
 もう黙った方がいい、と思っているのに、言葉が勝手に出てきてしまう。
「その、気にしてもらえるのが、嬉しくて、逆にどう返事すればいいのか、考えちゃって……それできっと、変な顔になっちゃうんです。すみません」
 俺の話を、六実先輩は頷きながら聞いてくれた。
「それだったら、よかった。ちょっとは恩返し出来てたかな」
「恩返し?」
 六実先輩が穏やかな目で、俺を見た。
「大学時代、テニスの試合見に来てくれた時にさ、アドバイスしてくれたから。あの後、結構成績上がったんだ」
 ――君が気にかけてくれたお陰だよ。
 そう話す先輩を見て、ようやく俺は確信した。
「先輩、今もテニスしてるんですよね?」
「たまに、ね」
 ちょっと恥ずかしそうに六実先輩は頭をかいていた。
「……また、試合見に行ってもいいですか?」
 おずおずと尋ねると、彼は笑った。
「もちろんだよ。またアドバイスしてほしいくらいだし。――ん、ちょっとごめんね」
 六実先輩はパソコンに来たメールに気づき、内容を確認する。そして素早くキーボードを打ち、返信した。
「五月女君の仕事はどう? 上がれそう?」
「えっと、あと保存かけて送れば、なんとか」
「それじゃあ、晩飯どう?」
「えっ、いいんですか?」
 思わず立ち上がりかけて、座り直す。
 やっぱり、六実先輩は口を押さえて笑っていた。
「嬉しかったの?」
「はい……嬉しかったです……」
 もう少しでいいから、ポーカーフェイスという技術を身につけていきたい……そう願いながら、俺はパソコンをシャットダウンし始めた。
 六実先輩が、ふと思い出したように言った。
「ねえ、五月女君。お地蔵様って喋ると思う?」
「はい?」
 思わず訊き返してしまった。
「それは……その、有り難い説法みたいな……?」
「違う違う、スピリチュアル系じゃないから」
 苦笑する先輩を見て、俺もふとあいつらのことを思い出した。
「あ、でも……喋っても、おかしくないかも、ですね」
「あれ? もしかして、君も何かあった?」
「えっ!? 君“も”って……? いや、何かって言うほどの何かでは……」
「そうか……」
 六実先輩は何か考えているようだったけれど、パソコンの電源が切れたのを見届けて、立ち上がった。
「なるほどなぁ……とりあえず、腹減ったし行こうか」
「へっ? 先輩、何で一人で納得してるんですか?」
 俺は歩きだした先輩の背中を追う。
 その時、微かに聞こえたのは……
「――君のこと、なのかな」
 先輩の表情は見えなかったけれど、その声は戸惑っているようで、でもどこか優しくて。何故か、それだけで俺は安心できた。
 俺達は晩飯のメニューについてあれこれ話し合いながら、タイムカードを押した。
 先輩と並んで歩ける幸せは、きっと永遠に続くものではないけれど。今はただ、この時間を大切にしよう。

〈了〉


小咄 其の二<上>

「See You」by.蓬 ケイ

『小さいころ住んでいた街に、私は戻ってきた。
 10年後の今日、まさに、今…』

「…って、実際は…なんにもないんだ…。」

「懐かしい」を連呼しながら仲よく楽しそうに構内を歩く母と叔父に気を使って、菜乃佳はぽつりと呟く。
 といっても2メートルほど先を歩いている二人には気を使わなくても菜乃佳の声は届きそうもない。
『書き出しは浮かんでも続きはまったく浮かばない…文才ないなぁ、私…。やっぱり大学は理系かなぁ…。でも、歴史は好きだし…はぁ、受験まであと1年もないのになぁ…。』
 ふぅ、とため息を一つついて空を見上げてみても、広がっているのは清々しい青色ではなく、灰色や白色が混じったようなくすんだ曇り空だった。
『別に…良いんだけど…良いんだけど…ね…。』

*****

『渋滞がひどくてですねぇ…んー、14時はちょっと無理ですねぇ。この感じだと夕方、18時近くになるかもしれないなぁ…。』
 引っ越し業者からそんな連絡が入ったのは、メインのパスタを食べ終え、「菜乃佳、デザート食べる?」「んー…ど、どうしよう…お母さんは?」「このチョコレートケーキが気になるのよねー」と、二人で盛り上がっているタイミングだった。
 道路事情とはいえ「予定が狂うだろう!」と腹を立てる人もいそうだが、母はあっさりと、「わかりました。それじゃあ、到着するまで散歩してます。えぇ、到着時間がわかったらまた連絡ください。はい、それじゃあまたあとで。」と告げ、電話を切った。
「お、お母さん…?」
「ん?なに?」
「いや、えっと、散歩って…?」
「んー、どこ行こうか…あ!大学行こう!学生じゃなくても入れるわよね。あ、菜乃佳の学校見学ってことにすれば良いのか。」
「そ、それ…私も、行くの?」
「え!?行かないの?」
「え…あ…お、叔父さんと行ってきなよ。私、あんまり会ったことないから、叔父さんの事、よく知らないし…。」
「えー!弟と二人で散歩してもしょうがないじゃない。45歳のおばさんと40歳のおじさんだよ?」
「え、えっと…。」
「春休み入ってからずっと引っ越し準備ばっかりだったんだからさ、菜乃佳もちょっとは気分転換しようよ、やっとゆっくりできるんだし、ね!」
「あ…えと…。」
「ね!」
「…う、うん…わかった…。」
『どうしてこの母から自分のような娘が生まれたのか…』と何百回と考えてきた疑問の言葉を飲み込み、菜乃佳はしぶしぶ母の提案を受け入れた。

 母は駅に降り立った瞬間から「懐かしい」を連呼してはしゃいでいた。
    商店街の喫茶店の食品サンプルを見ては「懐かしい!」
    公園のベンチで待っていた叔父を見つけては「懐かしい!」
    その叔父の足元でくつろぐ野良猫を見ては「懐かしい!」
『猫は…昔とは違う子だと思う…』と心の中でツッコミを入れながら、菜乃佳も「懐かしい」なにかがあるはず、とお店の看板や店名などをさりげなくチェックしていた。

 両親の離婚、というやむを得ない事情があるにせよ、大学受験を控えた高校3年生を迎える春休みに転校する今、卒業までの一年間に新しい友人を作り、楽しい学校生活を送るのは簡単ではない。
 それよりも、「懐かしい」なにかを拠り所に落ち着いて勉強ができる環境が整っていれば充分、と菜乃佳は考えていた。

 けれど、大学へ向かうまでの道中、菜乃佳にとって「懐かしい」ものはなにも見つからなかったのだ。

*****

「このお地蔵さん!ここに散歩に来ると、菜乃佳が毎回会いたいって騒いで大変だったなー。」「あぁ、懐かしいね。俺が通ってた時、『縁結びのお地蔵さん』なんて噂があったんだよなぁ。」「へぇ、アンタ、お願いしたことあるの?」「い、いやぁ、はは…」と、紹介された構内のテニスコート脇にいらした小さなお地蔵様にも残念ながら「懐かしい」という感情はわかなかった。
 しいて言えば「ちっちゃくてかわいい」という、今見た感想くらいのものだ。
『なにか…一つくらいあると思ってたんだけどな…。』

 それほど広くない構内を一周し、校門に戻ってきたところで、叔父から「そろそろ帰ろうか。」と帰宅が提案された。
 もうそんな時間なのかと携帯を確認すると15:55と表示されていたが、今の時季ではまだ日が沈むような気配はない。
「わ、私…もう少し、散歩したい…。ひ、一人で、大丈夫だから。」と菜乃佳が告げると、「えー、でも…」と母の顔が案の定心配そうに曇った。
「大丈夫だよ、姉さん。この街ならもし迷子になったとしても俺は絶対迎えに行ける自信があるし。」
 と助け船を出してくれたのは叔父だった。
「菜乃佳ちゃん、とりあえず学校の外周を一周してきてごらん。さっきテニスコートでお地蔵様にあいさつしただろう?その向こうが壁だったと思うんだけど、上には神社があるんだ。」
「神社…ですか?」
「そう、あの角の道が上に続く坂になっていてね、登り切ったらすぐに左に曲がって歩いていけば、一周してまたここに戻ってこられる。傾斜がきついから登りは大変だと思うけど、高台から学校を見下ろすと今の時季なら神社もここも桜が満開だから絶景のはずだよ。せっかくだし、あの子たち…いや、土地神様に、改めてよろしくお願いしますって挨拶しておいで。僕たちは新しい家で待ってるから。」
「は、はい…。」
 なぜか叔父に背中を押されたような気がしながら、一時間ほどで自宅に戻る約束をし、菜乃佳は一人で歩きだした。


小咄 其の二<中>


 叔父に言われた通り、角を曲がった先には想像よりも長く、きつそうな坂が待ち構えていた。
 一瞬『…帰ろう』と本気で考えたが、「こんにちは」と地元のおばあさんが悠々と登って行くのを見てしまっては、『…が、頑張れ、若者』と自分に活を入れて、登り出すしかなかった。


『ほ、本当にきつかった…夏は絶対にやめよう…。』
 登り切った坂を左に折れ、ゼェゼェと鳴っていた息が整う頃、屋根より少し高い位置に赤い鳥居が見えてきた。

「…うわぁ。」
 正面に立ってみると、上には赤い鳥居、下には白みがかった灰色の境内、その二つに挟まれた真ん中には木造の年季の入った小さなお社、そのさらに向こうを横一線に咲き乱れる桜という、息を飲む光景が広がっていた。
「…きれい…。」
 ふいに、菜乃佳の頭にぼんやりとした音が聞こえてきた。

『…のか………けた…』
『……ろんだ………いた…』

 それは今聞こえてきた音ではなく、記憶の中の誰かの声だった。
 内容ははっきりしないが優しい雰囲気で、「懐かしい」よりも不思議な感じがする。
 現実のような、夢の中のような…。
『ここに、来たことあるのかな、私…。』
 景色に魅せられたように、菜乃佳は境内に足を踏み入れた。

「うわぁ!菜乃佳だー!」
「うるさい、みぎ!ちょっとは落ち着け!」
 一歩踏み出した瞬間、突然目の前に小学生くらいのツインテールの子とショートカットの子が姿を現した。
「え?えぇっ!?」
「あ、危ない!」
 とツインテールの子に声をかけられた時には、菜乃佳は驚きのあまり石畳に尻餅をついてしまっていた。
「い、いたた…。」
「ご、ごめんね、菜乃佳、大丈夫?頭は打ってないよね?」
「打ってるわけないだろう。だから社で待っているべきだと…。」
「だってぇ、待ってられなかったんだもん!」
 そう言って心配そうに顔を覗き込んできたのは、先ほどの声の主、遠い記憶のなかに埋もれていた友人たちの顔だった。
「…ひ…だり…?…みぎ…?」
 浮かんだ名前を呟くと、にやりとショートカットの子が笑った。
「…あぁ。我らを覚えていたか、菜乃佳。」
「久しぶりだね、菜乃佳!みぎだよ!」
 そう言って屈託のない笑顔でみぎに話しかけられた瞬間、なぜか菜乃佳の目から涙が零れ落ちた。
「え、えぇ!?お、お尻、そんなに痛かった?大丈夫!?」
「あ、え、ううん、違うの、これは…。」
 これは…なんだろう、菜乃佳自身にも涙の意味はわからなかった。
「…とりあえず、話をするなら社の下でどうだ。石の上は冷たいだろう。」
 あわてふためく二人を落ち着かせるように、柔らかい声色でひだりが提案する。
「うん、そうだね、向こうで話そう!」
 そう言いながら差し出された二人の手を借り、菜乃佳は立ち上がった。
『懐かしい…。』

「本当に大丈夫?」
 社の階段に腰を下ろすと、すぐにみぎが右腕にしがみつき、脇から顔をのぞいてきた。
 偶然とはいえ、右側にみぎ、左側にひだりが座ったことに気づき、菜乃佳は「ふふ」と声に出して笑ってしまう。
「あ、なんでもないの。もう痛くないよ、大丈夫。」
「それはなによりだ。ここで我らが原因で怪我をされては、主様(ぬしさま)に示しがつかぬからな。」
「素直に『菜乃佳に怪我がなくて良かった』って言えば良いのにー。ひだりったら照れ屋さんっ!」
「ちがーう!そもそも突然姿を現せば誰でも驚くに決まっているだろうが!」
 菜乃佳を挟んでかわされる会話、両隣に感じる二人の温もり、この社からの景色。
 全てがただただ…
「懐かしいなぁ…。」

『なのか、みつけたぞ!』
『だるまさんがこーろんだ…あ!なのか、うごいた!』

 さっきは遠くでぼんやりと聞こえていた声が、今ははっきりと二人の声になって聞こえてきた。
「えっ!?菜乃佳、ど、どうしたの?」
「え?」
「『笑い泣き』、とは器用だな。」
 ひだりに言われて自分の目に手を当てると、確かに水滴が指についた。
「え、あ、なんだろ…ふふ、せっかく二人に会えたのにね?あ、ハンカチ、あったかな…。」
 涙につられて震えそうになる声をごまかすために、菜乃佳は体をかがめてカバンの中を漁り、探し物をするふりをした。
 背中ごしに二人の会話が聞こえてくる。
「ねぇねぇ、ひだり。しんぞーくんが大泣きした気持ち、ちょっとわかったね。」
「地蔵が大泣きっていうのもなぁ…どうなのかと思うが…。」
「『俺の菜乃佳が、俺の事を忘れてたー!』って叫びもねー。」
「地蔵としても、男としてもどうなのかと思うな…。」
「あ、あった。え、えっと…しんぞーくんって、だ………あっ!」
 今の大きさの菜乃佳が見下ろせば、それはただの「ちっちゃくてかわいい」お地蔵様だが、幼い頃の感覚で目線を同じ高さにしてみれば…菜乃佳と同じくらいのちょっとべらんめぇ口調の坊主頭の少年が「また来たのか、菜乃佳」と迎えてくれた笑顔がはっきりと思い出せた。
「…テニスコートの脇の…お地蔵様?」
「だいせいかぁい!」
 満面の笑みでみぎが菜乃佳に抱きついてきた。
「えっ!みぎ!?」
 突然のことに菜乃佳はそのままひだりの方へ倒れそうになる。
「ちょっ!みぎ!危ないだろうがっ!」
 どうにかひだりの身体が支えになってくれて、頭を打たずにすんだ。
「だってぇ、嬉しかったんだもん!」
「気持ちはわかるけどな!…あー、菜乃佳、あいつからの伝言だ。『また今度遊びに来いよ』だとさ。」
「あっ!そっか、三人はテレパシーで…わかった、絶対に行くから、って伝えてくれる?」
「あぁ、構わん。」

 二人と話していると、三人のテレパシーが羨ましかったことや、母と散歩に行く度にしんぞーくんのいる構内、みぎとひだりのいる神社に行きたいとせがんだことなど、どんどん「懐かしい」記憶が菜乃佳の奥底からあふれ出してきた。



「また会えて、本当に嬉しい。みぎ、ひだり。今度は、ゆっくり遊びに来ても良い?お弁当とか、持ってくるから。」
 そろそろ帰るからと次の約束を提案すると、突然、二人の顔が曇った。
「え、あ…ダメ、かな?ここでご飯とか、やっぱり、お社だし…。」
「あ…あのね、菜乃佳…私たち…」
 菜乃佳を見つめるみぎの言葉はここで止まった。
 菜乃佳が小首をかしげると、「…気が重いのは同じだが…」と頭を掻きながら、ひだりが告げた。
「我らは…今日しか会えぬ。」
「…え?」
 三人の間に、一瞬、沈黙が訪れる。
 沈黙に耐えられなかったのか、すぐに話し始めたのはみぎだった。
「…駅に電車がついてね、私もひだりもしんぞーくんもすぐにわかったよ、菜乃佳がこの街に戻って来たこと。すごくすごく嬉しかった。どんな菜乃佳が帰ってきたんだろうって。だけど…菜乃佳は忘れていたでしょう、私たちの事。」
「ご、ごめんね…。」
「いや。土地を離れ、時間が経過すれば自ずとそうなる。ましてや幼い頃の記憶なんぞ同じ場所にいても曖昧なものだ。それは悪いことではなく、自然なこと。菜乃佳が謝る必要もない。」
 そう言いながら、ひだりは菜乃佳の頭を撫でた。
「そう、忘れることは悪い事じゃないよ。だけど菜乃佳は…すごく心細そうだった。それに…」
「一人で、生きていくつもりだっただろう?」
「っ!」
「それが、私たちはすごく悲しかった。笑顔の菜乃佳をたくさんたくさん知っているのに、そんな菜乃佳がこの街で違う顔で過ごしてるのを見てるだけなんて…。」
「だから、我らは主様に頼んだのだ。『今日だけ、菜乃佳に会わせて欲しい』と。」
「みぎ…ひだり…。」
 気づけば菜乃佳の頬を涙が伝っていた。
「結局泣かせちゃったねぇ、ひだり。」「…まぁ、仕方ないだろう。」と話しながら、二人は菜乃佳の右手と左手をそれぞれ握った。
「菜乃佳、私たちはずっとここにいるよ。ずーっとずーっといる。一人じゃない。大丈夫、また新しい菜乃佳の世界が創れるよ。」
「みぎ…。」
「昔、新しい環境に飛び込んだ時と同じことをすれば良い。初めての場所でやることは年を重ねても変わらぬ。」
「ひだり…。」
「と、言うことで!」
 菜乃佳の手を握ったまま、すっくとみぎが立ち上がった。
「菜乃佳、まずは挨拶だよ!」
「え?」
 ポカンとする菜乃佳にひだりも手を握りながら尋ねる。
「小学校に入学する時、我らと考えた自己紹介、覚えているか?」
「今の菜乃佳の名前なら、効果2倍だね!」
「あ…」
 覚えている。
 それまで遠くの幼稚園に通っていた菜乃佳には、同じ小学校へ上がる友だちが誰もいなかった。
『明日、行きたくない』と涙を流した菜乃佳に二人が考えてくれた、菜乃佳の事を一回で覚えてくれる自己紹介。
「…うん、思い出した、よ…みぎ…ひだり…大丈夫、私、大丈夫、だよ。」
 優しい二人のために、菜乃佳は必死に微笑んだ。
 頬にはあとからあとから涙が伝っていたけれど、それでも、笑って二人を見送りたかった。
 みぎとひだりはそんな菜乃佳の顔を見て、同じように笑顔で菜乃佳の手をぎゅっと強く握った。
「うん、もう大丈夫だね。」
「菜乃佳。我らはいつもそばにいる。忘れるな。」
 二人の温もりは、一瞬にして消え去った。



「は、はじめまして。『五月女 菜乃佳(そうとめ なのか)』です。名前に「5月」とか「7日」とか入ってますが、誕生日はクリスマスです。よ、よろしくお願いします!」


小咄 其の二<下>


「菜乃佳さん、しっかり挨拶されていましたよ。お昼をご一緒されるお友達もすぐにできたみたいです。」
 テニスコート脇のお地蔵様、しんぞーの正面にちょこんと座った猫、猫又のおときがそう報告する。
『偵察ありがとね、おときさん』
「いえいえ、お安いご用です、みぎ様。」
『これでひと安心、だな。』
 テレパシーで満足そうな会話をする三人とは異なり、感慨深そうな声を発したのはしんぞーだった。
「親戚まで面倒を見ることになるとは、俺も年食ったもんだなぁ…。」
「菜乃佳さんは、巫女様たちの祝福を受けた方の血縁だからか、皆さまのお姿が自然と見えたとか?」
「そうなんだよ!長生きしてるとそんなことも起こるのかぁ、ってあんときは心底驚いたぜ。」
『ふふふ、長生きの醍醐味はこれからだよ、しんぞーくん!』
『えらそうになにを…。』
『だってひだり!孫も見れるし、ひ孫も見れるし、他にも…例えば…えっとえっと…。』
「今回のように姪、甥でしょうか。」
『そう!さすが、おときさん!』
「ははっ、確かに醍醐味だなぁ。…六実たちも、うまくやってるみたいだしな。」
『まぁ、いろいろありそうだが…結果的には「良縁が結ばれた」と言っていいんだろうな、あの二人に関しては。』
『ふふ、やっぱりしんぞーくんは「縁結びのお地蔵さん」だったね!』
「魂が呼応していた六実様へ五月女様の存在を知らせたのはお地蔵様ですからね。そうなるとご縁をつなげられたのはお地蔵様になるのではないでしょうか。」
「そ、そっかぁ?へへっ、照れるぜ〜。」
『まったく、この地蔵は、鼻の下を伸ばして…。』
『あ!しんぞーくん!菜乃佳がそっちに向かってるよ!』
「あー、だな。今度こそ笑顔の菜乃佳が拝めるってもんだ。」
『ふっ、地蔵が拝むって…。』
『細かいこと突っ込まないの、ひだり!』
「…お前らぁ…お前らの分のお供えがあっても俺が全部食ってやるからな!」
『なっ!』
『しんぞーくーん!!!』
 それからしんぞーの元を訪れた菜乃佳が「この間はごめんね、しんぞーくん。」と謝りながら置いた3つのおまんじゅうは、翌日には跡形もなく消えていた。

<了>